金ヶ崎城
かながさきじょう

(福井県敦賀市)
最終更新日:2016.1.10

地図

金ヶ崎城フォトギャラリーはこちら

<2016.1.10記>
金ヶ崎城というと、新田義貞ゆかりの地としてのの金ヶ崎城と、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が踏ん張った「金ヶ崎の退き口」として有名な金ヶ崎城との二つが思い浮かび、この二つのお城の区別がつかないまま現地を訪れたのですが、この二つの歴史的事件の舞台が全く同じひとつの金ヶ崎城で繰り広げられたのだという当たり前の事実に、今さらながら驚いたのでした。
それにしても金ヶ崎城、国史跡だし迷いっこないとたかをくくっていったのですが、案外と案内板が少なくて少々迷いました。実際に訪ねる際には「線路を越えたら間違っている」と記憶しておくとよいと思います。山麓の金前寺の手前に大きな専用駐車場があります。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:治承・寿永(1180〜1184)年、平通盛
気比氏、甲斐氏、朝倉氏
金ヶ崎城のある場所は敦賀市の北東部、京都方面に向かう敦賀街道が敦賀平野に出る直前の場所であり、まさしく交通の要衛であったことがわかります。そのため古来戦乱に巻き込まれる運命にあったようで、上に記した新田義貞や金ヶ崎の退き口に限らず、古くは源平時代から金ヶ崎城を巡る戦いの伝承が残されています。遺構は残っていてもその歴史が全く分からないお城の方が圧倒的に多い中にあって、何度となく歴史的な戦いの舞台となったことが判明している金ヶ崎城は誠に贅沢な存在と言えるでしょう。現地には某親王墓と伝わる地もあり、また焼米が出土した場所もあり、こうした歴史を裏付けるものがちらほらと残されています。国史跡の指定も、こうした歴史的経緯と無縁ではありません。とくに南北朝時代、南朝方の拠点として新田義貞が頑張ったことが、指定の背景となっていると思われます。
ただお城としての遺構はむしろ乏しく、三本の堀切の他には目立った遺構は見当たりません。現地に立って立地の重要性を再認識しながら、目をつぶってここで展開された数々の戦いに思いを馳せるのが、このお城の正しい鑑賞法でしょう。





inserted by FC2 system