一乗谷城
いちじょうだにじょう



所在地:福井県福井市城戸ノ内町
最終更新日:2018.6.5
越前の雄・朝倉氏の本拠地です。いつから本拠地かというと、通説では文明年間、朝倉敏景の時代ということになっていたようですが、その他の資料からどうやら朝倉氏はそれより以前の南北朝時代から一乗谷にいたことがわかってきましたので、それが本拠地を示す事績であるか否かはともかく、一乗谷城は南北朝時代から存在したのでしょう。
朝倉氏は平安時代の武士団である但馬国造・日下部氏の末裔で、もともとは但馬国養父郡の朝倉というところが発祥なのだとか。その一族が越前に移り越前守護・斯波氏のもとで実力を蓄え、やがて越前守護となり戦国大名として君臨するに至ります。
南北朝時代からとして200年余に亘る繁栄の歴史を持つ一乗谷ですが、天正3(1575)年に織田信長の侵攻を受けて潰滅。その後の越前の中心は北ノ庄(福井)に移り、一乗谷が顧みられることは二度とありませんでした。これが幸いし、現在の一乗谷には戦国時代、それも朝倉氏の繁栄期である16世紀半ばに集中した遺構や遺物がそのまま残されました。その歴史的価値は無限と言ってよく、特別史跡の指定も至極納得のゆくところです。
一乗谷を概観すると、谷の東側にある一乗城山に畝状竪堀を伴う巨大な山城が備えられ、その麓に朝倉氏館をはじめとする複数の大型武家館、川を挟んだ反対側に川沿いの街道と武家屋敷群、商家群、工房群と、機能や種類の異なる建物群が計画的に配置されていることがわかります。一大都市とも言えるこの谷の南北を大城戸で挟み込み、城山から谷までの全体が巨大な城塞となっています。これらすべてが一乗谷城、という認識です。
朝倉氏館に代表される大型武家館には、庭園付きの礎石建築が設けられていました。庭園は現在4ヶ所で発見され、いずれも滝や池などを効果的に配した名園で、4つまとめて国の特別名勝に指定されています。
なお、朝倉館の入り口にいい感じで建っている唐門は朝倉館のものではなく、朝倉氏の菩提を弔うために建てられたもので、豊臣秀吉によって作られたと紹介している資料も見たことがありますが、江戸時代に再建された二代目なのだそうです。

<2015.12.19記>
2015年の北陸旅のメインは、ここ一乗谷城。めでたく100名城スタンプも押すことができました。
ここでも雨は降りやまず、もともと予定していなかった山城部分に登らずに立ち去ることを、自分自身にも納得させることができました。先達諸氏の訪問記録を読ませて頂くと、ただ険しいだけでなく何かしら恐ろしいものに出くわすようで・・・ここは一人では登りますまい。うん。
さて、一乗谷の谷側の風景は、想像通り、文字通りのタイムスリップ。かつては田んぼだったようですが、その田んぼの下から全く手つかずの戦国城下町遺構がどどどっと出てきて、その主要部分が「完全復元」されているのです。観光客がいない瞬間を狙うと、うん。早朝の城下町といった風情でしょうか。でもちょっと生活感が足りないか。まあ仕方ないか。
資料館でお抹茶を頂き、館部分の散策に移ります。戦国城郭の庭園に興味津々、と言っても庭園の良し悪しまで理解できるわけではないのですが、ここ一乗谷に点在する庭園は実に美しく、久しく土中にあったとは思えません。雨のおかげで全体がしっとりとして、美しい庭園が更に美しく濡れ輝いていました。「雨でよかった」と思ったのは、実にこの一瞬だけでしたね。

<2018.6.5記>
2度目の訪問は、一乗谷城の背後に聳える一城山城に登ることが目的だったのですが、この時もまた雨、雨。1泊2日の行程の中で何度も何度もトライしたものの、晴れ間を見つけて駆けつけてみれば現地に限って雨、雨。一乗谷を離れると青空が広がって、引き返してみればまたもや、雨。こんないたちごっこを繰り返す中、諦め半分で一乗谷を散策してきました。桜が満開の季節だったものの、何しろ雨(しつこい!(笑))。暗ーい気分を引きずりながら、再びチャレンジする日を心に誓い、一乗谷を後にしました。
Data
ランク 特別史跡、特別名勝、100名城、100選、百選、福井県1位
門、庭園、石垣、土塁、堀
創築:南北朝時代?、朝倉氏 改築:文明3(1471)年以降、朝倉敏景
朝倉氏
九頭竜線一乗谷駅から一乗谷の復元町並み群まで2kmくらいですが、道中にも沢山遺構がありますから、駅から徒歩で向かうのもよいかもしれません。車なら国道158号線から県道31号線に入って足羽川を渡り、資料館を左手に見てしばらくいくと一乗谷入口の案内看板が現れます。
駐車場は広大なものが用意されています。町並み群は有料ですがそれ以外は常時無料開放されています。

一乗谷城フォトギャラリー





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