大多喜城
おおたきじょう



所在地:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜
最終更新日:2020.3.4

   
<2012.4.8記>
中世の大多喜城は、上総国に勢力を張った甲斐武田氏の一族・真里谷武田氏によって築かれ、その後、里見氏の有力被官である正木氏に取って代わられました。小田原の役までそのまま里見氏の支配下におかれますが、小田原の役のどさくさで里見氏が所領を削られると、この地は徳川家康の領内に組み込まれ、本多忠勝が10万石の大封をもって大多喜に入りました。この時、大多喜城は近世城郭として華々しく生まれ変わり、天守も建てられたもののようです。ちなみに中世の大多喜城は、現在の大多喜城よりむしろ規模が大きく、周囲の丘陵地をも抱き込んでいたのではないか、ということが最近の調査で少しずつわかってきました。近世城郭、しかも大多喜藩と言えば阿部氏や大河内松平氏といった、老中を多数輩出している格式高い藩である割に、大多喜城のことはよくわからないことが多いようです。
近世城郭としての整備が完了した後も、元禄年間(17世紀半ば)には早くも「門も塀もない」といった状態になっていたことが記録されており、かなり早い段階で本多忠勝時代の大多喜城は荒廃してしまったもののようです。明治になってからは本丸が「削られた」との記述も見られることから、現在の大多喜城がどれほど旧来の姿を残しているのかもわかりませんが、上の文にも書いた通り、岩をそのまま用いた虎口や横堀等、野趣に富んだ仕掛けを現在に伝えている他、二の丸には御殿入口の門と大井戸が残されています。城下町も何のかんのとそれっぽく残されています。いすみ鉄道に揺られ、城下町をぶらぶらしながらお城に登るのが、このお城の正しい訪ね方なのではないでしょうか。
千葉県の模擬天守は、実は苦手です。日本名城100選では千葉城以外の模擬天守は全て選に漏れ、そのくせ結構な数があって、そのくせ結構似たようなものが多くて、おまけにちょうど私が「城断ち」をしていた時期に造られたものが多かったりして、城の世界に戻ってきた時には、まずその区別をつけるのに意外な苦労をした記憶があります。今では何でもなく見分けがつくようになりましたが、「城断ち」から復活した頃には、私のお城を見る目自体が相当怪しくなっていたのでしょう。
大多喜城は、そうした中で、なかなかその形が頭に入ってこなかったお城でした。そのせいか、どうもなかなかこのお城には足が向かず、ゴルフのついでか何かで天守のそばを通り、「意外と大きいな」と思いながら、結局そのまま素通りしてみたり。
ある年の夏、ついに意を決して、息子に同行してもらって、大多喜城を訪ねることにしました。史実とは無関係の天守も、近くから見るとなかなか威風堂々としていますし、天守の中の展示物も結構充実しています。模擬天守以外の場所は、意外なくらい中世の色を濃く残していて、岩と岩との間をすり抜けるような虎口や、急峻な斜面に築かれた横堀や腰曲輪等、お城に詳しい人間であればあるほど却って「ほほう」と言いたくなるようなお城でした。
折角なので、天守の中にあった着脱自由の兜を息子に被せて、写真を撮ってきました。
ついでながら、駐車場に隣接したお蕎麦屋さん、いわゆる観光地のそれではなく、結構ちゃんとしたお蕎麦を出してくれます。天ぷらそばセット1,500円也が、なかなか満足の代物でした。

<2020.3.4記>
続100名城になった記念に、久々に大多喜城を訪ねてみました。本丸に立って眺める天守はちょっとどっしりしすぎていて違和感があったのですが、山の下から眺めた姿、特に大多喜高校の敷地内にある大井戸のあたりから見上げた天守はとっても堂々としていて、ほれぼれするほど美しい姿をしていることに気付きました。この天守、見上げられることを意識して造られているんですね。
ランク 続100名城、こんな城、千葉県5位
天守(模擬)、門(現存)、土塁、堀
創築:大永元(1521)年、武田(真里谷)信清 改築:天正18(1590)年、本多忠勝
武田(真里谷)氏、正木氏、本多氏、阿部氏、青山氏、阿部氏、稲垣氏、松平(大河内)氏(大多喜藩、20000石)
アクセス  大多喜の駅を出て右(南)に進み、道なりに線路を越えて通称「メキシコ通り」をせっせと登っていくと、やがてぐるっと回って大多喜城の本丸へと辿り着けます。車でも同じコースになりますね。
山麓の大多喜高校も城域で、城門と大井戸が残っています。この二つの遺構は校内ですが一応立入可、のようです。


大多喜城フォトギャラリー






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