稲村城
いなむらじょう

(千葉県館山市)
最終更新日:2013.1.9



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<2013.1.9記>
2011年の秋、岡本城と稲村城という、房総半島の二つの城郭が国の史跡に指定されるというニュースを見て、「それは見てみなければ」ということで、お城仲間を募って見学に行きました。岡本城に続いて訪ねたこのお城もまた、岩盤を削り出した切り通しや懸崖を持つ、この地域独特のお城です。
このお城でどうしても見ておきたかったのが、「正木様」。このお城の曲輪の一つがこう呼ばれているそうで、特に何があるわけでもないのですが、正木様と言えばこの地域の有力氏族で、里見氏を影から支えた(時に足を引っ張った?)ことでも知られています。その正木様を冠した場所がこのお城に伝えられていることが、なんだか嬉しいような恥ずかしい(?)ような。で、行ってみたら、やっぱり何の変哲もない場所で(笑)、それでも「ここが正木様と伝えられてきた場所なのね」と、ひとしきり感激したのでありました。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:不明・里見氏
里見氏
前期里見氏の本城とでも呼ぶべきお城です。里見氏はいわゆる「天文の内乱(稲村の変)」で里見氏嫡流の義豊が死に、傍流の義堯が父・実堯の仇を討つ形で里見氏の当主に収まるという事件を経て、その系統が入れ替わることになります。この内乱は義堯が善、義豊が悪として後世に伝えられてきたのですが、実体はどうもそうでもないようで、後に強力な戦国大名と化す里見義堯が、お家乗っ取りの事実を美化するために、対立していた義豊を悪人に仕立てたものではないかというのが最近の定説になっています。
そんな小難しい話はさておき、稲村城はそうした前期里見氏の本城として、里見氏本流から「一時的に」このお城を預かったとされる実堯、本来の城主とされる義豊と続き、義堯の代になって廃される・・・という流れにあったことは間違いなさそうです。天文の内乱は西暦にして1533年から1534年。武田信玄がまだ12、3歳の少年だった頃、織田信長が生まれる直前といった時代のお話です。
戦国時代としてはまだ古い時代のお城ということになりますが、山上の本丸の周囲は堅固な土塁で囲まれ、枡形のような空間や深い堀切等も有しており、なかなか強固な防御施設を整えています。ただ、本丸の発掘調査結果では、建物らしい建物も出なかったとのことで、本丸がどういった形で使われていたのかは、未だ謎に包まれています。
地元に伝えられた名称がいくつも残るお城で、大手道らしき切り通しのことを「水往来」と呼び、上の紀行文にも掲げた「正木様」など、往時の姿をほうふつとさせる呼び名も残っている点でも有難いお城です。2011年には、岡本城とともに国の史跡に指定されました。





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