三戸城
さんのへじょう



所在地:青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下
最終更新日:2018.7.20

   
<2014.1.13記>
国道4号線を十和田方面に向かって走っていけば、嫌でも三戸城が目に入るはず・・・それは間違いなかったのですが、このお城は東側から車で攻めようとすると袋小路に入ります。ちゃんと三戸町役場のある西側から行けば何の問題もないのですが。東側から登ろうとして行き詰まって、西側から回った時点でなんだかもういっぱいいっぱいになってしまって、今度は本来あるはずの天守風建物が見つからなくて。もと野球場だったと思われる広場から、その天守風建物の「資料館」に電話して、迎えに来て頂くという失態を演じることとなりました。天守風建物は駐車場の西(手前)にあるんですね。あー恥ずかしい。
資料館の来訪者は私達だけで、南部氏の歴史をじっくりと眺めることができました。落ち着いて改めて眺めてみれば、この天守風建物、結構格好良いのです。しかし「道の駅さんのへ」から改めて三戸城を見上げてみると、この天守風建物は木々に遮られ、全く視界に入ることはありません。うーん。折角の天守なのに。なんだか勿体ない感じですね。

<2018.7.20記>
三戸城は、三戸南部氏のお城です。三戸南部氏はもとは根城南部氏よりも下位にいたものと思われますが、16世紀になって勢力が伸長し、いつしか南部宗家の地位を奪取するに至りました。南部信直の時代に豊臣秀吉による天下統一がなされますが、信直はいち早くはるばる小田原まで参陣し、本領を安堵されました。九戸政実の乱の後、三戸城は蒲生氏郷の助けを借りながら近世城郭としての修築が施されたとのこと。現在三戸城に残る石垣はこの時以降に築かれたものであることは間違いないのですが、門跡の石垣石の加工状況があまりにも綺麗なので、蒲生氏の指導によるもの(天正期)ではなく、このお城が実質的な役割を終える寛永期ぎりぎりまで石垣構築が進められたのかもしれません。
三戸城は本丸を中心に緩斜面にいくつもの屋敷地が集まり、屋敷地の中央に枡形を伴う城門がいくつか設けられる、連郭式のお城でした。南部信直を中心に、領内各地に散らばっていた一族郎党を城下に集めた原初的な形と言われています。言い換えれば南部一族は、戦国時代の最末期(天正期)まで城下集住が徹底されておらず、一門や有力家臣は各々の知行地で半独立的な生活を営んでいたということでしょう。三戸城は本丸こそ最高所に設けられているものの、各々の屋敷地との間に明確な序列がある、とは言い切れない縄張りです。こうした点からも、戦国時代における南部氏の権力構造が垣間見えるような気がします。南部信直はやがて盛岡を本城とするに至り、寛永10(1634)年にこのお城は機能を停止します。盛岡城は明確に本丸、二の丸を階層的に有する近世城郭ですから、三戸城から盛岡城への移動は単に支配領域の真ん中に移動したという地理的な要因以上のことがありそうな気がしますね。なお、実は三戸城はその後も破壊されることなく、お城としていつでも使えるよう管理されていたという説があるそうです。一国一城令もこのあたりではさほど厳密なものではなかったのでしょうか。
三戸城には現在「温故館」と呼ばれる資料館が、天守風建物として建てられています。天正年間の修築の際には実際に三重の櫓が建てられていたようですから、必ずしも架空の建物とは言い切れません。模擬の櫓門が建てられているほか、移築城門がいくつか見られるようです。でもこのお城の見どころはやっぱり石垣。じっくり歩き回れば少なくとも5ヶ所以上で石垣を発見できますので、宝探しと思って探してみるとよいのではないでしょうか。
ランク -
天守(模擬)、門(移築、模擬)、石垣、土塁
創築:天文8(1539)年、南部晴政 改築:天正19(1591)年、南部信直
南部氏
アクセス 三戸町役場の裏側に、山上まで登れる車道がついています。山上の駐車場は広大(もと野球場?)で、城内のほぼど真ん中にありますので、城内の散策には便利です。模擬天守を兼ねた資料館(温故館)には、ややこしい南部氏の歴史が簡潔にまとめられていますので、城内散策前にぜひお立ち寄りください。


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