根城
ねじょう



所在地:青森県八戸市根城
最終更新日:2024.2.5

   
<2014.1.12記(2018.7.21修正加筆)>
初めて訪ねたのは2013年のことでしたが、世の中一般の「お城」のイメージを持ってこのお城を訪ねると、イメージとのギャップに少なからず驚かされます。世の中一般のお城のイメージがあまりにも狭い固定観念に囚われていて、お城というのはもっと多様なものなのだ、というのが真実なのですが、世の中一般のお城のイメージはなかなか覆るものではなく、そうしたイメージを強く持った方がこのお城を訪ねると、「これのどこが100名城なんだ」といたく失望することにもなりかねないのでご用心下さい(笑)。
城内はとにかく広く、堀と木柵以外には防御の仕組みもはっきりしなければ本丸を含めた曲輪の立地上の優劣すらよくわからない、どちらかというと古代の環濠集落みたいな構造と、その中に復元された、これまたお城らしくない建物の数々と。数百年もの間、城郭としての構造をほとんど変えることなく十数回に亘って建物だけを建て替え続けて住み続けたという、そのあまりにもゆっくりした時間の流れに、本州の最北端に来たのだという気持ちを強く持たされました。

根城は文字通りの「ねじろ」であり、根拠地としての役割がそのまま城名になっているものと考えられています。南北朝時代の始め、陸奥国司に任じられた北畠顕家のもと、国司代として奥州に下向したのが南部師行で、以後南部氏は東北の地にしっかりと根を下ろし、一族間の相克はあったものの、江戸時代には盛岡藩・八戸藩・七戸藩の3つの藩主として繁栄してゆきました。根城に拠った南部氏は根城南部氏(八戸南部氏、後に遠野南部氏)として、ある時期までは南部氏一族の中でも盟主的な存在だったようです。いつの頃からか、同じ南部氏でも三戸南部氏が力を持つに至り、根城南部氏は三戸南部氏に従属する立場になったようです。結果として三戸南部氏の系統が後の盛岡藩主となり、根城南部氏は遠野南部氏となって盛岡藩の筆頭家老の地位につきます。根城は根城南部氏が遠野への移転を命じられる寛永4(1627)年まで存続したようで、ざっと300年の歴史を有しているということになります。なお、後に立藩される八戸藩の藩主は盛岡藩主・南部利直の七男・直房を祖とする家系であり、三戸南部氏の系譜です。
根城の構造は本丸・中館・東善寺・岡前館・沢里館等の区画がそれぞれ堀に囲まれて独立性を保つ形で並ぶ連郭式のお城で、本丸への求心力が高まる近世のお城とはかなり様相を異にします。はやくから国史跡として保護され、昭和53(1978)年から11年かけて発掘調査が行われました。掘立柱建物354棟、竪穴建物跡82棟が検出されるという膨大な発掘成果が丹念に研究され、16回の建て替えを経て17期に分かれる根城の建物群の歴史が明らかになりました。現在は本丸内に「第16期」の主殿を始めとする建物の一部が復元されている他、お城の大部分が「根城の広場」として開放され、大変見学しやすいお城になっています。なお、広場の入口に建っている門は、八戸城の城門を移設したものです。

2018年に2度目の訪問を果たし、もう見るところはないだろうと思っていたのですが、重大な事実を忘れていました。「史跡 根城の広場」になっている場所は根城の「北半分」であって、根城にはまだ「南半分」があるのでした。南半分に属する岡前館の大半は住宅地ですが、その外側には三番堀と称される堀の跡が明瞭に残っています。また、独立した居館の態をなす沢里館にも綺麗な一重の土塁と堀が完存しています。公園化された北半分よりも、こちらの方がむしろお城らしいかも。ここは絶対見ておかなければいけなかった!(悔)
根城に主殿その他の建物が復元されたのはつい最近、という意識を持っていましたが、2018年現在、既に建築から20年以上が経過しています。現地では大規模修繕に向けた準備が進められているようで、建物管理の難しさを思い知ることとなりました。思えば経年劣化や火災等による修築・再建を重ねた結果、根城には17面もの時代相が形成されたのでした。もしかしたら史跡としての根城もまた、数多くの修築履歴を重ねていくことになるのかもしれませんね。

<2024.2.5記>
3回目の訪問となった根城ですが、到着するのが早すぎて主郭に入れず(笑)、まずは前回やり残した「外周を巡る」ところから散策をスタートさせました。まず北側から回り始めたのですが、下から見上げて初めて気付いたのが、博物館側から入るとただただのっぺりしていただけの曲輪群が、結構な高さの切岸に護られているということ。特に主郭周辺はさすがに秀逸で、群郭式のお城と言えども主郭ばかりはやっぱり特別な存在だったのだろうということが、下から見上げて改めて実感できました。
続いて南側。前回までは見落としていたエリアで、南端の沢里郭まで足を伸ばしてみました。沢里郭自体は単なる神社と草原にしか見えないのですが、南側に回ってみるとしっかりと(小さいながらも)堀が穿たれています。ここまでが間違いなく根城の城域なんですね。そこから博物館方面に向けて住宅地の間を貫く堀跡も貫禄の広さを誇ります。さすがは八戸氏、さすがは元祖・南部氏の城と、改めてそのスケールに感じ入りました。
遠野城を見てから根城を見て、根城を見てから遠野城を思い返して見ると、惣領家を中心として周辺の曲輪に陣取る新田や中館や沢里などの一門衆の配置が根城から遠野城へと見事に継承されていることに気付きます。根城内における一門衆がどの時代に定着したのかは不勉強のためよくわからないのですが、多くの武家ではとうに廃れ果てていた中世的な武家制度(一種の連邦制と言ってもよさそうな形態)が戦国時代を通り抜け、実に明治に至るまでその形を維持していたことはやっぱり驚きです。続ける力というのか続く力というのか。「凄い」という以外言葉が見当たりません。
ランク 国史跡、100名城、こんな城、青森県3位
主殿、門、柵、倉庫等(復元)、土塁、堀
創築:建武元(1334)年、南部師行
南部氏
アクセス 史跡 根城の広場は、国道108号線に面した大変わかりやすい場所に立地していますので、車ならまず迷うことはないでしょう。駐車場も完備しています。
100名城スタンプは隣接する八戸市博物館で押すことができます。


根城フォトギャラリー





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