弘前城
ひろさきじょう



所在地:青森県弘前市下白銀町
最終更新日:2018.8.10

   
<2014.2.1記>
青森への旅の中でもメインとなるべき弘前城でしたが、当日はあいにくの雨模様。どんよりとした空の下、どう頑張っても美しい写真にならず、その意味ではなんとも残念な訪城となりました。桜の季節や雪の季節ともなれば定番の撮影スポットである「赤い欄干と天守」の写真も、花もなく雪もなく青空もなく、おまけに天守が傾いて見えるという残念な写真となりました。2014年版カレンダーの最有力スポットだったのに。。。
しかし!
遅ればせながら、これで漸くにして「現存12天守」の全てを訪ねることができました!
広い広い弘前城の敷地を端から端まで歩き回り、写真で見ても見分けがつかない三つの櫓と五つの門を全て眺めてみて、やっぱり区別がつかないということを実感できたのも大きかったです。弘前城をじっくり回る時間を頂けたことに感謝、感謝です。

さて、「全国で最も残りがよいお城」といえば、普通に考えれば姫路城となりそうなところですが、もしかしたら弘前城の方が「残りがよい」と言えるのかもしれません。何しろ弘前城は本丸を囲む内堀に始まり、城郭を構成する中堀、外堀までの全ての構造物が完存する、全国でもほぼ唯一のお城。しかも幕末の代替品とは言え堂々たる現存天守を持ち、それ自体が希少価値である三重櫓を三基残し、そこらのお城では目にすることすらできない巨大な櫓門を五棟も残しています。
このお城を作ったのは津軽為信。為信の出自や南部氏との確執などはいろいろと物議を醸すところのもののようですが、戦国乱世の中にあっていち早く中央情勢に通じ、豊臣・徳川の政権交代の波を乗り切って見事津軽藩を存続させた英傑であることは間違いないところでしょう。その為信が関ヶ原の戦いで留守の間に居城・堀越城が乗っ取られるという事件が発生し、為信は徳川氏の了解を得て新たな築城の工を起こします。それから8年の歳月をかけ、子の信牧の代になって弘前城は完成します。つまり弘前城はもともとそこにあった中世のお城を拡張して作られたのではなく、全く新しい着想で慶長年間に作られた純粋な「近世のお城」ということになります。最果ての地にいきなり登場した近世城郭は、きっと当時の領民の度肝を抜くものとなったことでしょう。
天守はもともと五重のものが建っていましたが寛永4(1627)年に焼失し、文化7(1810)年に「御三階櫓」として新築されたのが現在の天守です。本丸の外側から見た姿を内側から見た姿が全く異なることは有名です。これを天守と呼ぶのか三重櫓と呼ぶのかという細かい議論はありますが、見た目も役割も存分に立派な「天守」です。なお、現存櫓と門の名称も折角なので羅列しておきますと・・・辰巳櫓、丑寅櫓、未申櫓、三の丸追手門、三の丸東門、二の丸南門、二の丸東門、北の郭亀甲門、となります。もう少し特徴的な名称を付してくれればもう少し区別もつきそうなものですが。ちなみにもっと地味ですが、与力番所も城内に移築復元されています。

<2018.8.10記>
この年の5月のはじめに二度目の訪問を果たしました。石垣補修工事の間、天守が平行移動して本丸の真ん中に鎮座するという、まさに今しか見られない風景が現出しているということもあって、桜の季節の訪城となりましたが、びっくりしたのは人の数(笑)。弘前城の桜は全国的にも有名ですが、弘前さくらまつりというのはこんなにも人を集めるものなんですね。あまりの人手に近隣の駐車場は全ていっぱい。この時は岩木川の河川敷の仮設駐車場に車をおいて、えっちらおっちら歩いて城まで往復する羽目になりました。
やや桜の盛りを過ぎた時期のこと、名物の「桜の花びらに埋まる堀」も、どことなく茶色い花びらが広がる風景となってはいましたが(笑)、それでも堀いっぱいに広がる桜の花びらは圧巻そのもの。なるほど一見の価値がある桜です。ただでさえ地味で存在感の薄い三重櫓群が、いよいよ霞んで見えました。
ランク 国史跡、100名城、100選、百選、こんな城、青森県1位
天守(重文)、櫓(重文)、門(重文)、石垣、土塁、堀
創築:慶長8(1603)年、津軽為信
津軽氏(弘前藩、100000石)
アクセス 弘前市役所とその隣の観光コンベンション協会を探訪の起点にするのがベストでしょう。車ならどちらかの施設の下にある駐車場に駐車するのが便利。市役所の正面に追手門が開いています。三重の堀の中には城内にありがちな「動物園」や「野球場」などもなく(陸上競技場はありますがw)、ほぼ純粋に城跡公園だけという贅沢な作りです。広いので現存建築物を見て回るだけでも骨折りですが、折角なので建築物は漏らさず見て行きましょう。


弘前城フォトギャラリー





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