湯沢城
ゆざわじょう

(秋田県湯沢市)
最終更新日:2017.4.2

地図

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<2017.4.2記>
湯沢城は湯沢市街を見下ろす中央公園として市民の憩いの場になっていますので、いくつもの登城路が整備されています。一番見付けやすいのは市街地側で、市役所のすぐ南側に入口が開いています。ここから行けば移築門も見られるので、本来ここから登るのがスタンダードです。
が、少しでも楽したい私(笑)は、公園の背後まで車で登るコースを選びました。これだと尾根道なので、高低差なく主郭まで辿り着けます。私が訪ねた時には散策路の整備を行う準備をしていたようで、散策路予定地に部分的な発掘を実施した痕跡がありました。50cm四方くらいの試掘坑の中には、柱穴のようなものを検出した跡も見受けられました。散策路程度では地下遺構が損なわれることはなさそうですが。
このコースだとお城の裏側から入り込むコースになるのですが、それでもずいぶん歩きました。このお城、相当に大きいな、というのが実感です。
Data
ランク -
門(移築)、土塁、堀
創築:安貞元(1227)年、小野寺道定
小野寺氏、楯岡氏、佐竹氏
出羽の戦国大名・小野寺氏は当初稲庭城に本拠を構えますが、後に横手城へと移ります。湯沢も小野寺氏の勢力圏内で、稲庭城主小野寺経道の三男・道定が13世紀の初め頃に初めて湯沢城を築いたとされています。湯沢城はその後も小野寺氏の一族が守り須付けますが、戦国時代も末期に入り、文禄年間になってから最上氏の侵攻をうけます。一揆の後始末という名目のようですが、時期的には最上氏の煽動による事実上の領国侵害のような気がするのですが、いずれにしても最上氏は湯沢城や稲庭城など、小野寺氏の城を次々に攻略していきます。小野寺氏の当主・義道は横手城から援軍を出すことができず、湯沢城を見殺しにする形となりました。これが後々まで響き、小野寺氏の悲劇を生みます。
湯沢城には最上氏の将である楯岡氏が入りますが、関ヶ原の戦いが勃発し、徳川方についたはずの小野寺氏は最上氏との旧怨を忘れることができず、同じ徳川方である最上氏領へと攻撃をしかけてしまいます。これが結果的に西軍への寝返りと捉えられ、小野寺氏は戦後改易となってしまいました。最上氏と小野寺氏、どっちが悪いのか・・・
湯沢は後に佐竹氏の領内となり、湯沢は佐竹南家の領するところとなりましたが、湯沢城は元和一国一城令により廃城となりました。現在、湯沢城は中央公園となり、公園の入り口にはかつての佐竹南家の屋敷にあった門が移築されています。





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