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大湯のストーンサークルのすぐ近くで、「日本のピラミッド」との呼び声も高い黒又(くろまんた)山の向かいにある小山が鹿倉城です。鹿倉城のある鹿角地域は「鹿角四十二館」と呼ばれ、武蔵の成田氏の一族が下向して土着した場所なのだそうで、大湯氏もその四十二館の一つだったようです。16世紀には三戸南部氏の支配下に置かれたようですがあまり従属性は強くなく、天正18〜19(1590〜1591)年の九戸政実の乱においては九戸氏に味方しています。やがて九戸氏が劣勢となると三戸南部氏の部将である大光寺勢に攻め込まれ、鹿角城は落城の憂き目を見ます。秋田県ともなると南部氏の中心勢力からも相当遠いのですが、それでも九戸の乱の影響があったことは驚きです。
お城は急斜面に囲まれた本丸の他、堀切で仕切られたいくつかの郭から構成される比較的簡素な造りだったようです。 |