西馬音内城
にしもないじょう

(秋田県雄勝郡羽後町)
最終更新日:2017.4.3

地図

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<2017.4.3記>
西馬音内城は、盆踊りで有名な羽後町の西馬音内にあります。西馬音内と書いて「にしもない」。まずもって知らなければ読めません。それだけに、一度覚えてしまえばまず忘れることもない地名ですが。西馬音内にある「元西小学校」という学校の正面に、西馬音内城の碑と案内板が立っています。元西小学校の「縁」の部分をぐるっと回ったところに登り口がついていますので、そこから校庭を左に見ながら山を登ります。と、ほどなくとんでもない遺構群が現れます。
西馬音内城の遺構は、その90%くらいがシダ植物に覆われていると言ってもよいでしょう。櫓台も、切岸も、遺構の全てが緑の葉に覆われています。そしてまた、その遺構がとんでもなく広大。想像してみましょう。100m以上に及ぶ、折れを伴った切岸がびっしりとシダ植物で覆われている様を。こんな風景、西馬音内城以外で見ることはできないのではないでしょうか。
私自身、存在を知ってから間もないお城ですが、足を運んで絶対に損はないお城だと思いました。車が置けないのが難ですが・・
Data
ランク 秋田県5位
土塁、堀
創築:建治3(1277)年、小野寺道直
小野寺氏
稲庭城(後に横手城)に本拠を構えた小野寺氏の一族が居住したお城です。創築は建治3(1277)年と言われ、小野寺氏の祖である経道の次男である小野寺道直に命じて築かせたものと伝えられます。道直から8代目が戦国時代に当主となった茂道ですが、茂道はもともと小野寺氏本家の13代目当主・輝道の長男とされ、戦国大名小野寺氏の最後の当主であった小野寺義道の兄に当たる人物です。しかし庶子である茂道は本家を継ぐことができず、西馬音内小野寺氏を継いだという次第。これだけでも義道から見たらちょっと煙たい存在となりますね。
事件は天正16(1588)年に発生します。近隣の矢島城にあった矢島満安は茂道の娘婿でしたが、仁賀保氏の侵攻に耐えかねて西馬音内へと逃げ込みます。ところがこれを謀反の兆しと受け止めた小野寺義道は、西馬音内城に討手を差し向けます。この時は満安が自刃したため表立った戦にはならずに済みましたが、茂道と義道との間は疎遠になりました。
関ヶ原の戦いの後、義道は出羽を追われますが茂道はこれに従わず、そのまま出羽に土着して新庄藩や久保田藩等の東北諸藩に仕えるようになったそうです。
こうした歴史を見るにつけ、小野寺茂道はなかなかの人物だったことが想像できます。そしてその居城であった西馬音内城は、そんな茂道の人柄を示すごとく、全くもって隙がない造りになっています。現在も元西小学校の背後にその広大な城地を完全に残していますので、ぜひとも一見することをお勧めします。





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