角館城
かくのだてじょう



所在地:秋田県仙北市角館町古城山
最終更新日:2018.6.21
<2017.3.13>
角館は何しろ城下町の美しいところなのですが、今回の旅では城下町散策は二の次となっておりまして(汗)。
城下町をゆっくり散策・・・というのはもう少し歳を取ってからの方が味が出ると信じ、今回は角館城一本に絞りました。実際そうしないと、城下町に向かう人の波と駐車場待ちの列に巻き込まれてしまいそうで。
そうした混雑をやり過ごし、「古城山」と称する山の方に車を向けると、案の定、駐車場に車は一台もなく。おそらく一日に一組くらいしか歩かないであろう古城山への散策路はところどころで草ぼうぼう。それでもめげずに登っていくと、案外広い主郭へと辿り着きました。
・・・が、それだけで(笑)。
下から見るといかにもそれらしい山に見えるのですが、平たい主郭の他にはほぼ何もないお城だということがわかりました。
角館城は、仙北地方に勢力を張った戸沢氏の本拠となったお城です。戸沢氏の歴史は古く、平維盛に衡盛という子があり、源頼朝に従って武功を挙げ、雫石に領地を得たのが始まりとされています。もっともこの平衡盛という人物の実在性には疑問があるようなのですが、いずれにしても戸沢氏は初代以来一貫して「盛」の文字を使用しており、その根拠を平氏に求めていることは間違いなさそうです。また、その出自はさておき、鎌倉時代にまで遡って活躍していた武士であることも間違いなさそうですから、概ね武士勃興の時代から明治までその血脈を保った稀有な一族ということになります。
戸沢氏は南部氏との抗争の中でその本拠地を雫石から南の門屋へと移しますが、やがてこの角館へと移住します。角館移住の時期には応永年間や天文年間など諸説があるようですが、諸般の事情を考慮すると文明年間が正しいのではいかとされています。
戸沢氏中興の祖は戸沢盛安。盛安は小野寺氏や安東氏との抗争に勝利し、戸沢氏は戦国大名としての地位を確かなものにします。小田原の役にも東北大名の中でいち早く駆けつけるなど、豊臣秀吉の覚えもめでたかったようですが、小田原参陣中に急死してしまいます。無理がたたったのでしょうか。その後を継いだ戸沢光盛も文禄慶長の役に赴く途中で病死します。難しい時世の中での相次ぐ当主の死となれば、家中動揺するのが世の常なのですが、その後を継いだ戸沢政盛はバランス感覚に優れていたようで、徳川氏にうまく近づき、重臣の鳥居氏との縁戚関係によってなんと譜代大名としての地位を獲得し、以後戸沢氏は新庄藩6万石の大名として明治まで家を守り続けます。
戸沢氏が角館を去ったのは関ヶ原の戦い後のことで、角館は佐竹氏の支配するところとなります。角館城に入ったのは蘆名義広。伊達政宗と派手に戦って戦国大名としての蘆名氏は滅びましたが、蘆名義広自身はこんなところでしぶとく生き残っていたんですね。蘆名氏の血統は明暦2(1656)年で絶え、以後は角館佐竹氏の支配するところとなりました。ただ角館城は蘆名氏の時代にはもう使われなくなっていて、現在伝わる通り「古城山(ふるしろやま)」となっていたようです。
角館城は戸沢氏以来の輝かしい歴史を有するお城なのですが、その割にはお城はシンプルです。戸沢氏には本拠地を必死で防御するという発想はなかったのかもしれません。

<2018.6.21記>
二度目の角館。今度はちゃんと城下町も散策しました(笑)。
角館城下町は、なるほど聞きしに勝る素敵な武家屋敷街でした。が、いかんせん人が多くて(笑)。訪ねたのが桜の盛りだったせいもあるのでしょうけれども、車を停めるのも一苦労でした。臨時駐車場を取り仕切るおばさんに、停めてよいとは到底思えない場所へと案内されたりとか。
人ごみの中でふと気付くのは、誰も角館城を見ることもないし、ほとんどの人は角館城に足を運ぶこともないということ(数人、登っていたようではありましたが)。振り返られることのない山城は、それでもしっかり武家屋敷街を見下ろしているようでした。
Data
ランク -
曲輪
創築:文明年間、戸沢秀盛
戸沢氏、蘆名氏、佐竹氏
角館武家屋敷街の北側に聳える山で、古城山公園として整備されています。山腹に駐車場がありますので、武家屋敷街の駐車場があまりにも混んでいる時は、ここから武家屋敷街に向かってもよいかもしれません。

角館城フォトギャラリー





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