本荘城
ほんじょうじょう

(秋田県由利本荘市)
最終更新日:2015.915

地図

<2015.9.15記>
由利本荘市の中心部、市役所からもほど近い丘の上に本荘城はありました。
お城の丘の東側に本荘城の・・・というか本荘公園の駐車場があります。そこからよっこらしょ、と階段を登れば、そこがもう本荘城なのです・・・が、近世のお城であればむしろ時々そうであるように、このお城もまた本丸に立つと全然お城の匂いを感じません。
むしろ本丸から見下ろした時の、広大な三の丸敷地とその向こうの堀、それにさりげなく建てられた模擬の城門を眺めた時の方が、まだいくぶんお城らしさを感じられるといいますか。
ゴールデンウィークの「さくらまつり」の最中でしたが桜の姿はとうになく、人影少ない公園の中はあたり一面、つつじが満開でした。
Data
ランク -
門(模擬)、土塁、堀
創築:慶長15(1619)年、楯岡満茂
楯岡氏、本多氏、六郷氏(本荘藩、20000石)
新しいお城です。戦国時代には存在せず、山形の大藩・最上氏の家臣であった楯岡満茂によって関ヶ原の戦いから10年後に着工された地域支配のためのお城です。最上氏が存続していたら一国一城令で廃城になっていたところですが、最上氏は元和8(1622)年に改易されてしまいますので、分割支配となった本荘の地には本多正純がまず左遷され、それから外様大名の六郷氏が2万石で入り、地味に明治までそのまま本荘藩主としてこの地を治めることとなります。
大名としての六郷氏はほとんど知られていませんが、調べてみると実に地味に、数少ないチャンスを着々と活かして大名に上り詰めていることがわかります。六郷政乗という武将は、最初は横手城の小野寺氏の配下にありましたが、小田原の役でちゃっかりと所領を安堵され豊臣秀吉の直臣となり、関ヶ原の戦いではちゃっかりと小野寺氏(西軍)を攻めて大名になり、大阪の役でもちゃっかりと働いて加増を受け、そんなこんなで2万石の大名となった人物。これはこれで実に上手な生き方をした方と言えるでしょう。明治まで大名としてお家は存続するわけですし。
そんなわけでお城には中世や戦国の雰囲気が残るはずもなく、むしろ行政官庁的な存在としての色彩が強く表れています。現在の由利本荘市役所がお城の隣に位置するのも決して偶然ではないでしょう。お城らしさは山の上よりも、むしろ三の丸を囲む水堀にあるという、いかにも近世のお城にありがちな風情です。





inserted by FC2 system