秋田城
あきたじょう



所在地:秋田県秋田市寺内
最終更新日:2022.11.21
<2015.9.13記>
秋田市にある秋田城は、いわゆる城下町を伴う江戸時代のお城ではありません。県庁所在地の名を冠するお城ですが、このお城は古代城郭。いわゆるお城のイメージは皆無で、むしろ平城京などの都城に近い形をしています。朱塗りの復元門の周辺では、中学生くらいの少年たちがゴムボールで野球をしていました。由緒正しき政庁の跡が、ただの公園として普通になじんでいる、不思議。肩の力が抜けた古代遺跡が、そこにありました。やたらと広い「目抜き通り」の復元遺構が、いやでも目に付く遺跡でした。
秋田城は出羽国の政庁であり、同時にまた大和朝廷の北限を示す軍事拠点でもありました。出羽国が成立したのは大化の改新真っ只中の和銅年間だそうですが、最初の国府は今の庄内地域に存在したもののようです。その後、天平5(733)年に現在の秋田城の地に「出羽柵」が移され、やがてそこは「秋田城」と呼ばれるようになりました。秋田城には出羽国司とは別に国司級の役人が一人常駐し、「秋田城介」と呼ばれていました。戦国時代にこの秋田城介を名乗ったのが、江戸時代に秋田氏に改姓することとなる安東氏です。
秋田城は一時期国府としての役割も担いながら、8世紀から11世紀頃まで機能していたようですが、前九年・後三年の役を経てその機能を失うに至ったようです。
昭和14年に国史跡に指定され、以後断続的に発掘調査が行われています。現在復元されている礎石群や建物などは、秋田城の第一期の姿を示しているのだとか。東北の他の古代城柵が比較的正方形に近い平面プランを持つのに対し、秋田城は多賀城とともに不整形の平面プランを持っています。このあたり、何か理由があるものなのかどうか。私の知識の及ぶところではありません。

<2018.7.1記>
上の文章で素朴な疑問として提示していた「不整形な平面プラン」については、(多賀城を整形プランに含めることが前提とはなりますが)概ね陸奥国が整形プラン、出羽国が不整形プランという築城法を有していたもののようです。正方形プランが都城制のそれからくることはまず間違いないのでしょうけれども、不整形プランがどうして生まれたのかはやっぱり謎ではあります。ただ確かに秋田城に限らず払田柵も不整形ですし、清原氏の居館とされる大鳥井山遺跡も不整形。清原氏の流れをも組み込んだ奥州藤原氏の柳之御所も不整形で、出羽=不整形という一類型は一応の整合性を保っているようです。しかしなんでなんでしょうね。
続100名城スタンプができたことで再訪なった秋田城。実は前回、大変重要な遺構を見逃していました。
それは、トイレ(笑)。
記録を調べると2008年には復元工事が始まっていたようですから、前回はものの見事に見逃したことになります。今回はしっかり眺めてきました。このトイレは水流を巧みに活用したもので、いうなれば古代の水洗トイレ。溜まった遺物から、古代人(少なくともこのトイレを利用した人)の食生活まで明らかになってしまったのだそう。科学の力は恐ろしいですね。それにしても、こんなにユニークな遺構を見逃していたとは!
前回はなかったのに今回は存在していたものが他にもあります。城内に建つガイダンス施設に、続100名城スタンプが設置されました。前回来たときは体育館みたいな建物に遺物が展示されていたのですが、今回は建物もろとも消滅し、近くに新設された「秋田城跡歴史資料館」に移されました。国史跡として着々と整備が進み、続100名城にも選ばれた秋田城。これからもっと多くの方が見学に訪れることでしょう。でもそういえば、前回も今回も変わらなかったのが「子供の遊び場」としての安定感。私にとっては「登呂遺跡」が子供時代の遊び場でしたが、こんな素晴らしい遺構を遊び場に出来る子供たちは、やっぱり幸せなんじゃないですかね。

<2022.11.21記>
秋田城跡歴史資料館と秋田城との間には、交通量の多い道路が挟まっています。これが結構危なかった上に、道路が切通し状になっているため、資料館と秋田城の行き来は密かな難儀ポイントとなっていましたが、なんと!ここに跨道橋が作られました。道を跨ぐ橋、跨道橋。あ、でもそもそも歩行者しか歩けないから普通に歩道橋と呼べばいいんですかね。いずれにしてもこの橋のおかげでいちいち登り下りすることもなく資料館と秋田城との間を行き来することができるようになりました。
秋田城の政庁は道路によって削られた部分もありますがここだけは方形で、その外側に不整形の外郭が設けられています。秋田城と言えば「例の水洗トイレ」がすっかり有名になりましたが、厳密に言えば水洗トイレは秋田城の築地の外にあって、城域からは外れています。でもそういった城域外の建物群までもが発掘され、整備保存がなされている点も、秋田城ならではの特徴と言えるでしょう。今回はトイレの先の礎石建物群までじっくり眺めて、秋田城と周辺領域の広さを実感することができました。
秋田城は長らくその場所が不明であったにも関わらず、知名度は昔から抜群でした。それは「秋田城介」という官職があったからとも言えるでしょう。出羽城介、後に秋田城介と改称されるこの官職は、出羽守より一段低い「介」である誰かが秋田城を護ったことに由来するとされ、後世には多分に名誉職となっていきますが、戦国時代になって織田信忠が秋田城介を任じられる等、その時々において何かしらの意味を持って用いられてきた官職です。戦国時代には恐らく秋田城の場所さえも不明瞭になっていたものと推察されますが、こうして官職にのみその名が残されたという点でも、秋田城というのはやっぱり特別なお城だったと言えるのでしょうね。
Data
ランク 国史跡、続100名城
門、厠、壁(復元)
創築:天平5(733)年、大和朝廷
-
かつては秋田県護国神社が目印でしたが、現在は秋田城跡歴史資料館が開館しましたので、まずはそちらを目指し、資料館から跨道橋を越えて秋田城を訪れるのが最適だと思います。

秋田城フォトギャラリー





inserted by FC2 system