吉田城
よしだじょう



所在地:愛知県豊橋市今橋町
最終更新日:2019.11.21
<2013.8.5記>
岡山まで車を飛ばしたその帰り道。夜通し走るその道すがら、このお城の脇を通ったことがありました。既に日付は変わっていて、入道櫓のライトアップも当然終了している中で、コンパクトカメラのストロボを焚いて、
「写れ!」
と念じて写真を撮ったものでした。念写か!(笑)
それから長いことこのお城を訪ねる機会に恵まれなかったのですが、奥三河のお城を案内頂いた帰り道、長躯豊橋までお送り頂き、更には吉田城を対岸から見るという機会を作って頂きました。豊川越しに見る吉田城はなかなかの面構えで、その翌年の壁紙カレンダー(城郭編)の一ページを飾ることになりました。
しかし実は、未だまともに城内を見学したことがないということに、この原稿を書きながら気が付く始末・・・
夜でもなく、対岸からでもなく、いずれきちんと見学したいと思います。
吉田城は、牧野古白によって16世紀の初めに築かれたというのが通説です。後に徳川氏を支える譜代の雄・牧野氏も、この時代にはまだ今川氏の傘下にあり、勢力を拡大しつつあった松平長親(徳川家康のおじいさんのおじいさん)に対する押さえとして築かれたもののようです。今川氏衰退後は徳川氏の勢力下となり、このお城には徳川四天王のひとりに数えられる酒井忠次が入ります。それだけ重要な場所だということでしょう。徳川氏が関東に移った後には池田輝政がここの城主となり、近世城郭へと改修されます。池田輝政は泣く子も黙る名城・姫路城を作ったその人ですから、姫路城と吉田城をよくよく調べたら、何らかの共通点が見いだせるのかもしれません。
池田氏が姫路に去った後は、このお城は三河吉田藩の藩庁として、譜代大名たちが入れ代わり立ち代わり出入りして、最後は松平(大河内)氏で明治を迎えます。お城の建物は全部取り壊されますが、昭和30年代になって三重の櫓が鉄筋コンクリートで作られました。「入道櫓」と通称されてきましたが、位置的には「鉄櫓」が正しいようで、最近は「三重櫓」と示されることも多いようです。模擬建築ですが結構な年月を経ているので、なんだかんだといい味が出ています。城内は豊橋公園として、美術館やら野球場やらに占領されてはいますが、野趣溢れる石垣や堀が往時の姿を伝えています。

<2019.11.21記>
2018年に行われた静岡古城研究会の見学会で立ち寄るはずが、お祭りにぶつかって見学不可という不幸に見舞われ、続100名城のスタンプも押せずじまい。再起を期して2019年の1月に吉田城を訪ねたら、今度は鉄櫓が休館日!スタンプそのものは豊橋市役所でも押せるのですが、この市役所がなかなかの高層ビルで、結構上の階まで上がった挙句、職員さんに声をかけないとスタンプが出てこない仕組みでした。いや、別によいのですが、なにぶん山城仕様だったものですから、市役所の中で浮いたこと浮いたこと・・・(笑)。
この時は、駐車場から堀に入り、そのまま竪堀を下まで降りて別の竪堀から登るという、自由気ままな城内散策を楽しみました。だって山城仕様だし(笑)。降りて登って気付いたのですが、横堀がそのまま竪堀になって下まで落ちる、という構造はそれこそ山城ではよく見る仕掛けなのですが、吉田城は豊橋市のど真ん中。町のど真ん中にあって竪堀をそのまま残す吉田城って、実はなかなか素晴らしいお城なのではないかといいうことが、次第次第にわかってきました。土づくりの枡形も残っていますし、通好みのよいお城なのだと思います。
Data
ランク 続100名城、100選、愛知県7位
櫓(模擬)、石垣、堀
創築:永正2(1505)年、牧野古白 改築:天正18(1590)年、池田輝政
牧野氏、小原氏、酒井氏、池田氏、松平(竹谷)氏、松平(深溝)氏、水野氏、牧野氏、松平(大河内)氏、松平(本庄)氏、松平(大河内)氏(三河吉田藩、70000石)
  豊橋市役所の隣です。お城のある豊橋公園は野球場や陸上競技場等を備えたスポーツ公園なので、近くまで行けばすぐにわかると思います。大きな無料駐車場もあります。
続100名城スタンプは鉄櫓で押すことができます。休館日には豊橋市役所でどうぞ。

吉田城フォトギャラリー





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