大給城
おぎゅうじょう

(愛知県豊田市)
最終更新日:2016.8.2

地図

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<2016.8.2記>
大給城を訪ねたのは夕暮れ時でしたが、日暮れぎりぎりまで、時間が許す限り散策を続けたくなるお城でした。
戦国の城、というより、近世に一歩も二歩も突っ込んだ感じのお城です。石築地で仕切られた広い本丸やすき間なく積み上げられた石垣など、どう見ても戦国時代の造作ではないよなあ、という場所が随所に見られて。
でもそんなことよりも驚かされるのは、このお城が乗っている山の、岩の多いこと。ごつごつした岩というよりむしろのっぺりとした感じの岩なのですが、そんな岩が山の至る所で露出しています。松平城山城でもそう感じたのですが、大給城もまた元々岩石信仰の山とかそんな場所だったのを、お城へと改装したのではないでしょうか。石垣と巨石とが織りなす風景には、一種独特なものがあります。
独特と言えば、一番驚いたのが上の写真。巨石の上に、鳥の巣か何かのように石垣が積まれています。機能だけでみれば銃座、ということになりますが、その機能を考えるよりなにより、石の上にまるっと石を積んでしまおうと考えた人が秀逸過ぎて、しばし言葉も出ませんでした。
水の手曲輪の石垣も見事でしたが、私は何よりもまずこの「鳥の巣銃座」がとっても気に入ってしまいました。
Data
ランク 「こんな城」、愛知県8位
石垣、土塁、堀
創築:不明、長坂新左衛門
長坂氏、松平(大給)氏
松平氏には三河国内の各地の地名を冠した一族が沢山存在しますが、大給城の主もまたその中の一つで、松平氏4代当主・親忠の次男、乗元が大給を名乗ったことに始まります。大給松平氏は、江戸時代には西尾藩、豊後府内藩、岩村藩、奥殿藩の藩主を輩出する名家となります。奥殿藩は飛び地の名を冠して田野口藩と呼ばれることもあり、幕末の藩庁は奥殿陣屋から信州の田野口陣屋に移されました。田野口陣屋とはつまり、本州唯一の五稜郭である龍岡城のことにほかなりません。
大給城は天正3(1575)年、近隣の滝脇松平氏に攻められて廃城となったと言われますが、現在残る縄張りも石垣も到底天正時代とは考え難く、どう見ても慶長年間以降に何らかの改築がなされたものと推測できます。
お城のエリアは広く、縄張りは複雑です。広めに作られた主郭には仕切りの石築地が存在することから、平時の居館もここにあったことが推察できます。
このお城で普通真っ先に紹介されるのが、「水の手」の石垣。谷筋を利用して、四角いため池のような空間が二つ作られており、実際に水が溜められていたものと思われます。堤防状の石垣は確かに見事ですが、いつの時代のものなのか・・・
年代観に関する難しいことはさておき、このお城は松平城館群を構成する一城として、国の史跡にも指定されています。公園として整備され、駐車場も完備していますので、腰を落ち着けて端から端までじっくり散策されることをお勧めします。





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