長篠城
ながしのじょう



所在地:愛知県新城市長篠市場
最終更新日:2023.8.11
<2011.6.11記>
このお城を初めて訪ねたのは、中学2年生の時だったと思います。信州・松本からまっすぐ南に向かって、いくつものお城を訪ねながら、当時はぐねぐねだった峠道を越えて、長篠城まで辿り着きました。運転していた父が、「まだか、まだか。まだ登りは続くのか。峠はどこだ。」と呻いていたのを覚えています。それでも、番号のついた案内板を見つけるたびに、「ここに”8”があったぞ。じゃあ、”9”はどこだ?」と、まるでオリエンテーリングを楽しむかのように、一周くまなく歩いて回りました。
それから30年近くが経過して、80歳に手が届こうとする父と昨年たまたまこの話をしたら、意外なことに父もよく覚えていました。私に対して笑いかけることもなく、会話することそのものが滅多になくなってしまった父ですが、あの旅とあのオリエンテーリングは、二人だけの共通の思い出として、生涯忘れ得ぬものになったのでしょう。
2011年のこの年、私の息子は中学2年生になりました。

奥三河のこの地域は、菅沼一族と奥平一族の根拠地として、小さな抗争を繰り広げながらも安定した基盤を維持していましたが、武田氏が勢力を拡大してきた頃から様相が一変します。武田勝頼と徳川家康との間で、ちょうど長篠城を境として一進一退の攻防が続き、天正元年前後に徳川氏の属城となったところで突貫工事による増強がなされ、現在の城郭の形になったと伝えられます。
このお城を何と言っても有名にしたのは、天正3(1575)年の長篠の戦いの前哨戦としての長篠籠城戦でしょう。家康の娘婿となっていた奥平信昌が、わずか500の寡兵をもって数万の武田軍を釘付けにし、織田・徳川連合軍の到着までの時間を稼ぐという大手柄。長篠の戦いそのものの位置づけには様々な異論はあるものの、結果だけ見れば織田・徳川が武田を撃破し、武田軍凋落のきっかけになったという事実だけは動かし難く、その意味でも長篠城が落城せずに耐えきったことは、城郭史の中でも指折り数える偉業と言えるでしょう。
お城そのものはふたつの大きな河川の合流地域に立ち、三方が崖という恵まれた地勢にあって、人工の構築物は最低限に留められたようです。現在も残る本丸北側の土塁と堀は巨大ですが、その方面以外は自然地形によって守られていたようです。現在は本丸の外側に資料館が建てられ、近隣の長篠合戦にまつわる記念館ともども、この地に残る歴史を今に伝えています。

<2019.11.22記>
2019年のはじめ、久しぶりに長篠城を訪ねてみました。本丸を囲む堀と土塁は若干綺麗になったかな、という感じがしました(上の写真が2011年当時のもの。下のフォトギャラリーに入っている写真が2019年のもの)けれども、その他の風景は昔のまま。それこそもはや40年近くも経過しているのに、あの頃のままと言っても差し支えないでしょう。お城ブームが到来し、お城やお城を楽しく学ぶための施設が続々と作られている中にあって、長篠城が40年前と変わらぬ姿でそこにあるというのも、ある種の奇跡と言えるのかもしれません。今は亡き父と「番号順」に巡った標柱も、少なくとも何本かはそのまま残っているようです。

<2023.8.11記>
長篠といえば長篠の戦い。長篠の戦いといえば鳥居強右衛門・・・といっても過言ではないでしょう。長篠の戦いの直前、数万の大軍に囲まれる中、わずか500の兵でひたすら長篠城に立て籠もっていたという、奥平信昌とその一党。絶対絶命とも思われたその時に長篠城を果敢に抜け出し、岡崎まで援軍要請に赴いたその足で長篠へと取って返し、援軍到着を伝えようとする寸前で武田軍につかまり、「援軍は来ない」と城内に叫べば許してやると言われ、それに逆らって「援軍は来る!」と叫んでその地で処刑されたという鳥居強右衛門。強烈なインパクトを放つ磔刑図が旗印にまで使われた伝説の人物となった鳥居強右衛門を「ドジな怠け者」と位置付けて、一世一代の恩返しというシナリオに仕上げた大河ドラマ「どうする家康」の演出は未だ記憶に新しいところですが、自らのテーマソングを口ずさむ斬新な切り口はともかくとして、「ああ、もしかしたら実際の強右衛門もこんな感じだったのかもしれない」との感慨を抱きながらの視聴となりました。実際の強右衛門がどんなキャラクターだったのかを正確に知る人はいないんですから、こういうところは自由でいいと思うんですよね。いやそりゃどう考えても自らのテーマソングは歌わないとは思いませんけれども(笑)。
長篠城は本丸に立つよりも、豊川を挟んだ対岸から見た方がその要害性がよくわかります。豊川に架かる牛渕橋という橋から見た姿が最もいい感じではないでしょうか。鳥居強右衛門磔刑の地も近くにあります。実は筆者もそちら側には行ったことがないのですが(おぃ)、長篠城を訪ねた際にはぜひそちら側にもお立ち寄りください。次は筆者も必ず行きます。
Data
ランク 国史跡、100名城、100選、愛知県6位
土塁、堀
創築:永正5(1508)年、菅沼元成、修築:天正元(1573)年、菅沼正貞
菅沼氏、奥平氏
  国道257号線を走っていけば、いやでも長篠城へと誘う看板に行き当たります。飯田線の長篠城駅から歩いても500mくらいなので、飯田線がうまく使えれば鉄道でも探訪可能ですね。
100名城スタンプは、城内の史跡保存館で押すことができます。

長篠城フォトギャラリー





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