小牧山城
こまきやまじょう



所在地:愛知県小牧市堀ノ内町
最終更新日:2020.4.2
<2001.8.26記>
全山これ、要塞。
とはいっても、小学校5年生だった少年・小城の目にはよくわからなかったようで、23年ぶりに訪問してその要塞ぶりを初めて実感し、漸くにして大いに満足しました。
この山は、山全体が史跡です。ですから、石碑も「史跡 小牧山城」ではなく「史跡 小牧山」。
それにしても盛夏のこと、茂った木々と耳をふさぐばかりのせみの声、それに藪蚊の襲来を受け、準備不足の私は早々に退散せざるを得ませんでした。ある意味で、この山は今でも現役の要塞のようです。
山の北側の駐車場に戻るとき、うっとうしい潅木に覆われた、目障りな土手が、山麓を一周する土塁だと気づきました。
まるで必死になって、来るものを拒み続けるかのように立ちはだかる土塁。
この山は、やっぱり現役の要塞です。

<2014.2.1記>
織田信長が美濃に進出するための前進基地として、清洲から本城を小牧山に移したのが永禄6(1563)年のこと。永禄10年、美濃の稲葉山城が落城し、信長は本拠地を稲葉山に移し、当地を「岐阜」と改称します。この間、わずか4年。滞在期間の短さから、長らく「一時的な居住地」としての認識しかなかった小牧山ですが、平成22(2010)年までに実施された発掘調査により、小牧山城は少なくとも二重の石垣に囲まれていたことが判明しました。ここ数年継続している発掘調査によって、「佐々木」銘の入った墨書石や本丸周囲をぐるっと囲む石垣の存在など、近世城郭の起点を覆すかもしれない貴重な発見が相次いでいます。石垣は基礎部分から2段程度が残るのみのようですが、土中から現れた巨石の石垣は迫力満点。
小牧山はその後、いわゆる小牧・長久手の戦(天正12(1584)年)の際に徳川家康の本陣がおかれ、その際にもかなり本格的な陣城としての手が加えられたと考えられています。
徳川の世になると、濃尾平野を見渡せる唯一の丘である小牧山は立入禁止となり、尾張藩の厳重な管理下におかれ、明治の世を迎えました。
ちなみに小牧山は現在復元整備計画が進められでいますが、どうか「復元しすぎ」にだけは気を付けてほしいものだと思います。

<2015.2.15記>
2014年の秋、ついに久々の訪城を果たしました。発掘された石垣はほぼもとのように埋め戻されていましたが、以前も眺めていた石が石垣の一部だったことがわかったり、前回まで見ていなかった山腹の横堀や、一直線に伸びる旧大手道などを堪能し、改めてこの城のタダモノではなさを実感しました。2015年も更に発掘調査が進められているようです。最終的にどういう形で保存されるのか、そもそもどんな発見が待ち受けているのか、目が離せません。とりあえず2014年は小牧山城のために、「ふるさと納税」もやってみました(笑)。

<2020.4.2記>
小牧山城を初めて訪問したのが11歳の時、あれから40年以上の年月が流れました。麓にあった市役所も撤去され、埋もれていた山麓の堀と土塁も復元されました。2014年当時に「復元しすぎ」を気にしていたことが上の文章からも読み取れますが、今のところ整備状況は「ほど良い」感じかな、と思っています。山頂近くの木々が払われて、模擬天守の写真が撮りやすくなったのもちょっと嬉しいかも。一方、小牧山の南側には城下町の初源とも言えるような大きな町があったことがわかってきましたが、それは開発の代償として行われた発掘の成果であり、現在はすっかり住宅地へと変貌してしまいました。ほんのちょっと前まで、このエリアには畑も結構残っていたような気がするのですが。
Data
ランク 国史跡、続100名城、愛知県4位
天守(模擬)、石垣、土塁、堀
永禄5(1562)年、織田信長
織田氏
  周辺開発が進んで、駐車場の位置もくるくる変わっていましたが、現在は小牧市役所の駐車場が最も便利です。市役所とメガドンキホーテの間にありますのでどこが何の駐車場かわかりにくく、広い割には通り過ごしやすいのでご注意ください。

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