「烏山城と勝山城によせて」

〜下野ミニオフ会に参加できなかった腹いせに文章だけオフ会に参加した時の作品(笑)〜

初稿公開日:2008.7.12

佐竹、小山、結城、千葉・・・知っているようで知らない、もしくはまとめて眺めたことがない、関東の名族たち。今回は、そんな名族たちの中から、恐らくこの日に訪ねるであろう烏山城の那須氏と、勝山城の氏家氏にスポットを当ててみました。

1.関東八屋形と那須七騎
「関東八屋形」という呼称があります。室町幕府(足利将軍)が定めた「三管領・四職」の関東版とでも呼ぶべきもので、応永6年(1399年)、関東公方の足利満兼によって定められたと言われており、「八屋形」に指名された八家は、その後それぞれ家臣団から「お屋形様」と呼ばれる存在になっていきます。その八家とは、

佐竹、小田、小山、宇都宮、那須、長沼、結城、千葉

を指しています。いずれ劣らぬ名族揃いですね。しかし、この中で江戸時代を通じて大名家であり続けた家は佐竹氏だけですから、武家の世の中というのもなかなか厳しいものだと、今さらながらしみじみと感じたりしています。もっとも結城氏などはちょっと特殊で、養子に迎えた結城秀康が松平に復姓してしまったために、結城を名乗る家がなくなってしまったという、よかったのか悪かったのかよくわからないような顛末を迎えているのではありますが。一応、結城氏の祭祀権は秀康の五男の家系である前橋松平家に継承されていますので、結城氏は決して滅亡しておりません。念のため。
さて、今回の訪問先である烏山城を本拠地としていた那須氏は、先に挙げた関東八屋形の一家であり、八屋形に指名されるよりずっと以前、鎌倉時代の勃興期にはかの「那須与一」を輩出している、部門の誉れ高き家柄です。ちなみに那須氏では関東八屋形とは別に、「那須七騎」という強力な武家集団を編成していました。その七騎とは、

那須、芦野、福原、千本、伊王野、大関、大田原

です。おやおや?と思う方もいらっしゃるかもしれません。七騎のうち、大関氏(黒羽藩2万石、のち1.8万石)と大田原氏(大田原藩1.2万石、のち1.1万石)は、江戸時代を通じて大名家として存続します。しぶといです。大田原氏に至っては、大田原城に在住する大田原藩の藩主として、栃木県大田原市を500年以上もの間、領知し続けます。地名と藩名、藩主の名が完全に一致し、しかも一度も改易・転封がなかったという家は、全国くまなく探しても大田原氏だけでしょう(滋賀県には9550石で惜しくも大名になれなかった朽木谷・朽木陣屋の朽木氏がいますけれども)。しぶといです。ちなみにその他の家も、芦野、福原、千本、伊王野それぞれに徳川旗本家として存続します。那須一族、相当にしぶといです。
そんな中、那須家の当主たるべき那須氏はというと、ご多分にもれず、一族相争う展開となりました。特に上那須(本拠地:福原城)、下那須(本拠地:烏山城)の争いはおよそ100年(!)続き、16世紀の始め、下那須側の那須資房によって統一が実現し(正確には上那須氏が自滅し)、那須氏は漸くにして戦国大名に脱皮します。ここまでの争い方は、隣国常陸の佐竹氏とそっくりです。
長いぞ。はあはあ。でももう一息、那須氏の歴史をひも解いておきましょう。
統一那須氏となってからも、隣地の宇都宮氏、佐竹氏等との戦いなどがあって、宇都宮尚綱を討った那須高資が講和を装った宇都宮氏のだまし討ちにあうなど、文字通り血みどろの戦いが繰り広げられます。しかもその裏では同士であるはずの大関・大田原の両氏が宇都宮氏を扇動していたりして、16世紀の終わりには、なんだか地域全体が疑心暗鬼の塊みたいな状態になります。
豊臣秀吉の小田原攻めは、そういう極限状態の中で勃発しました。秀吉来る!の報を受け、関東から東北までの武将の間には大激震が走ります。目先の戦いを放棄して、いち早く中央の秀吉の下に馳せ参じるか。それとも北条と同じく、地方分権を維持し続けるか。さあ、どうする。
大関・大田原は、いち早く秀吉のもとに参じます。その際、どうやら両氏は那須氏の当主・那須資晴にも「一緒に行きましょう」と声をかけていたような節が見受けられます。ところが資晴は、どうしたわけかその誘いに応じませんでした。資晴の脳裏には、大関・大田原に裏切られた那須高資の最期の姿が蘇ったとか蘇らなかったとか。これが結局、那須氏の運命を決定付けてしまいます。小田原の役の後、資晴の烏山領(どうやら8万石だったようです)は全て召し上げられ、戦国大名・那須氏はここでいったん消滅します。大関・大田原の両名は、それでも那須氏再興の懇請を幕府に続けます。果てさて大関・大田原、善人なのやら悪人なのやら。紆余曲折を経た那須氏は、その後いったんは大名に復帰します(福原城主だったり烏山城主だったりします)が、最後はまたまたお家騒動で改易となります。那須与一以来の名門としてはなんとも淋しい限りですが、同じ関東八屋形でも江戸時代に一度も大名になれなかった宇都宮氏や、北条氏と運命を共にしてしまった千葉氏等に比べれば、いくぶんまし・・・でしょうか。

2.烏山城について
さてさて、長い目で見れば那須氏累代の本拠地であった烏山城ですが、小田原の役の後はそれこそネコの目のように城主が入れ替わります。
織田氏→成田氏→松下氏→堀氏→板倉氏→那須氏→永井氏→稲垣氏→大久保氏
と替わって、大久保氏になってやっと8代連なり、明治に至ります。その間、常に2〜3万石の小大名でしたから、台所は正直、火の車だったことでしょう。烏山城のいでたちがもうひとつ近世の城らしくないのは、どうもこのあたりの台所事情も影響しているようです。そもそも織田信雄が尾張を剥奪されて飛ばされた先がこの烏山ですから、福島正則にとっての川中島、加藤忠広の出羽丸岡みたいな扱いでしょうか。城があっただけまだまし、でしょうか。要するにもう少し那須氏がしっかりしていたら・・・いやいや。それはまあ言うまい、ということで。
烏山城は、本来2万石程度の藩主が使うお城ではありません。名門・那須氏の本拠だった頃には、山全体が巨大な要塞と化していました。江戸時代にはその城域をめいっぱい縮小して使っていたようで、江戸時代に使われたところに石垣が用いられている・・と考えて頂ければ、ほぼ間違いないのではないかと思います。関東の近世城郭で石垣が使われているのは、考えてみると珍しいですね。見どころは「車橋」と呼ばれる堀切(昭和50年代に刊行された探訪ブックス「関東の城」には、ここに木橋が写っているのですが、いつの間になくなってしまったのでしょう?)から本丸入口までの、息がつまりそうな狭い通路と古い石垣、本丸&古本丸(たぶんもとの本丸で、江戸時代に使わなくなったところ)の西側に延々と連なる横堀あたりでしょうか。季節柄きっと草ぼうぼうで、探訪にも結構苦慮されることと思いますが、無理のない範囲で訪ねて来てください。時間もあまりないことでしょうし、ヤナの鮎も気になることでしょうから(笑)。

3.氏家の隠れた名城・勝山城と氏家氏
今回のオフでの探訪が予定されているもうひとつのお城・勝山城は、旧・氏家町(現・さくら市)に存在します。もっとも、恐らく現在でも、この地域のことを「さくら」と呼ぶ方はいらっしゃらないと思いますが。氏家は氏家です。この由緒ある地名をないがしろにして、どこにでもある「さくら」という名でくくってしまったのには、「氏家」と「喜連川」という由緒正しき二つの地名のどちらに決着してももう一方がおさまらないだろうという、とっても人間的な(もしかして日本人的な)背景があるのでしょう。
さて、氏家の地を本拠とした氏族が氏家氏です。氏家氏はかの関東八屋形の宇都宮氏の一族で、氏家に移り住んだことにより氏家氏を名乗るようになりました(橘系の独立氏族であった氏家氏に宇都宮氏が姻戚関係を結んで一族化したという異説もあります)。氏家氏はその後足利幕府からの恩賞によりざっくり美濃と奥羽に別れ、美濃の氏家氏は「美濃三人衆」として名高い氏家卜全を輩出します。一方、奥羽の氏家氏は大崎氏に仕えますが、豊臣秀吉の天下統一の過程で大崎氏は所領を没収されたため、伊達氏に仕えることとなります。それから一時期途絶する時期もありますが、曲りなりにも明治まで氏家氏の家系は守られていきます。ちなみに美濃三人衆のその後は・・・と、そこまで行くと脱線しすぎですね。氏家氏がこの地を去った後も、勝山城そのものは宇都宮氏の重要な拠点として、小田原の役の後、宇都宮氏が所領を没収されるまで存続したようです。
実は、私は一度だけこの勝山城を訪ねたことがあります。所用があって矢板市まで車を走らせている最中に「城跡」の看板が目に入り、どんなお城なのかという予備知識もないままに本丸へと足を運び、あまりに見事な土塁にしばし呆然としたものでした。にもかかわらず、私はつい先日まで、このお城の存在を忘れていました。ある時ふと、「北関東の川辺にある、土塁に囲まれた方形の本丸を持つお城」のことを思い出し、あれこれ調べて、やっとのことでそのお城が「勝山城」であることを突き止めました。今ではきっと整備も進んでいることと思いますが、私が訪ねた平成2年の頃には、本丸は草ぼうぼうだったように記憶しています。このお城の発掘調査は昭和56年から実施されていますので、ちょうど発掘が終わった頃だったのかもしれません。ちなみに発掘調査が行われるより前、この場所には一大レジャーセンターが建設されており、本丸には「六重」の「大」天守閣が聳えていました。もちろん今では跡形もありませんが、萩城の天守に似た、かなり堂々とした天守だったようです。
このお城の見どころは、何と言っても本丸を囲む土塁と堀に尽きます。中世土豪の方形館をそのまま城郭に発展させたものと考えてよさそうな構造ですが、本丸の入口近辺の土塁と堀はきちんと屈曲しており、戦国時代も終わり頃の技法が取り入れられているように見受けられます。もっとも、そこ以外は全般にやや古めの縄張りであることは否めませんけれども。あとは、本丸から眺める鬼怒川の眺めが、果たして平成2年に私が眺めた景色と同じかどうか・・・同じであれば、なかなかの景色だったと思うのですが。

4.あとがき
関東地方の武家と言えば、一騎当千のツワモノ揃いであったはずですが、なまじツワモノが揃っていたばかりに、時代の流れをうまく読みきれない名門が数多く見られました。宇都宮氏や千葉氏等、鎌倉時代から名を馳せていた名族たちが、惜しくも戦国時代の最後の一波に飲み込まれ、消滅の憂き目を見ました。那須氏のように辛うじて大名に踏みとどまった家も、江戸時代を通じて大名でいることは出来ずに終わりました。今回訪ねるであろう烏山城や勝山城には、そんな消え去った名族たちの思いが色濃く残されているような気がします(決して怨念ではないですよ)。
城跡に立たれたら、ぜひそんな悲運の名族たちにも、ほんの少し思いを馳せて頂ければと存じます。

参考資料 : 「戦国の堅城U」(学研)、小学館「探訪ブックス 関東の城」(小学館)、他





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